杉江松恋の新鋭作家ハンティング ハヤカワSFコンテスト大賞作品『羊式型人間模擬機』『コミケへの聖歌』を併読

これは2作とも、見えること、の小説だと思った。
ハヤカワSFコンテストは今回で第12回を迎え、2作が大賞、1作が優秀賞に選ばれた。上で言う2作とは大賞作品、犬怪寅日子『羊式型人間模擬機』・カスガ『コミケへの聖歌』(ともに早川書房)のことである。
『羊式型人間模擬機』(以降『羊式』)は題名も奇妙だが、内容も予測不可能な味わいに満ちている。内容というより、文体だ。昨年のこの賞は特別賞として、間宮改衣『ここはすべての夜明けまえ』(早川書房)という快作を送り出した。自らの女性性を忌避するために人造の身体になることを選んだ女性の一人称で書かれた作品で、語りそのものに価値がある作品だった。『羊式』は、独自性という意味ではその上を行くと思う。
「きょうのあさ、だから今朝、大旦那様が御羊になられた」という一文で小説は始まる。視点人物の〈わたくし〉は、その大旦那様の部屋に入って「大きな毛のまとまりと、ほんの少しの顔である生き物」を発見する。〈わたくし〉は少しの間だけ躊躇する。「すこし記憶がとおく、記録? それが遠いので、御羊の顔をすぐには思い出せなかった」のである。この、一つの単語を口にした後で本当にそれで正しいのかを確かめるような独語や、適切な言葉が見つからなくてうろうろと遠回りするような文章が本作には頻出する。〈わたくし〉は作者によって若干の神の視点を与えられたような語り手ではないため、既にわかっていることしかわからないし、見えているものしか見えないのである。
作者は忠実にこの原則を守る。文章が若干、というかかなり読みづらいのはそのためである。読みづらいと言っても用語は平易なものばかりである。なにしろわかっていることと見えているものしか語らない語り手だから。だがこの視点人物は観察を行わないのである。観察とは「そのものがどういう状態かを注意して見ること」だが、その「注意」がない。〈わたくし〉の目は物事の表面を公平になぞっていくだけなのである。究極の客観描写というか。
大旦那様が御羊になられた、という事実を〈わたくし〉は一族の皆様に伝えに行く。どうやらこの一族では、長じると御羊になるという現象が生じるらしいということがわかる。その御羊の命を奪って解体し、肉を食うという通過儀礼が行われることもわかる。その儀礼が一方の性にとっては重要だが、もう一方にはあまり関係ないということもわかる。そのくらいのことはわかる。だがわかるのはそこまでだ。
『羊式』の小説としてのおもしろさは、わかることを目的として文章が書かれていない点にある。たいがいの小説は逆で、文章を読ませるのは何が起きているかをわからせるためだ。わからせたくて、それは説明じゃないか、という文章を書くものさえある。それとは正反対で、わからせることをほぼ目的としていない文章が連なる。わからせるのではなく、そこにあるものをただ見せるということに徹した小説なのだ。おもしろい。
たとえば〈わたくし〉は一族の皆様から違った呼び方をされる。「ユウ」「ユゥ」「U」「ユー」「ゆゆ」「ゆっちゃん」「ユユ」「ゆう」「ユゥー」「you」などなど。それらの差異がなぜ生じるのかはもちろん説明されない。ちなみに一族の皆様はこの〈わたくし〉に対する呼称でのみ識別が可能である。描写によってそれぞれの個性を醸し出すという手法はもちろん取られていない。〈わたくし〉と〈一族の皆様〉という関係性は、最後まで読めば何かの意味に見えてくるが、単なる勘違いかもしれない。
この不可思議な小説と対称的に、非常にわかりやすいように見えたのがもう一作の大賞受賞作、『コミケへの聖歌』だ。